【それぞれが象徴しているもの・こと】
(1)『かえるくんとみみずくんの共通点と相違点』
かえるくんとみみずくんはある意味で対照的ですが、ある意味では共通しているところもあります。例えば、かえるくんは東京を救う者、みみずくんは東京を壊す者、というのは代表的な対象のポイントであると言えます。さらに、かえるくんはいろいろな本の話をしたり、冗談を言ったり、知的な一面を見せますが、みみずくんのことをかえるくんは「何年も何十年もぶっ続けで寝ています。(中略)実際の話、彼はなにも考えていないのではないかと僕は推測します。」と説明しています。これは対照的です。しかし、一方でかえるくんは冬眠する者、また、みみずくんも冬眠する者です。さらに、かえるくんは自分のことを「かえるさん」と呼ぶ片桐を事あるごとに「かえるくん」と人差し指を立てて訂正しますが、かえるくんが自分を「くん付け」で呼べと言うのと同時に、彼はみみずくんを「くん付け」で呼んでいます。これは共通点であると言えます。つまり「かえるくんとみみずくんは、同種、同じ性質の者ではあるが、まったく逆の立場に位置している」と考えられます。
(2)『全ては地下、または想像の中で行われたということ』
この物語を分析するにあたり、「地下」というキーワードに注目します。村上春樹作品で地下といえば、なにか不のイメージの出来事・存在が溜まる場所というイメージがあります。(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドのやみくろ/ノルウェイの森の井戸)また、村上春樹が執筆した地下鉄サリン事件のノンフィクション小説「アンダーグランド」も、地下鉄、つまり地下の出来事です。そしてかえるくん、みみずくん共に冬眠するものであり、地下に存在するものという考え方もできます。
では今回の「地下」がなにを指しているのかと言えば、人間の無意識下の精神だと思います。なぜなら、地震を食い止める為に地下へ降りたはずのかえるくんは、昏睡から覚め、病院のベッドで寝ていた片桐に向かって「片桐さんは夢の中でしっかりと僕を助けてくれました」「すべての激しい闘いは想像力の中で行われました」と言ったからです。まず、昏睡している状態で人間が関与できる場所は、無意識下での自分の精神・または想像しかありません。すべての闘いは片桐の精神・想像の中で行われたという可能性もあるのではないかと思います。さらに、かえるくんとみみずくんが冬眠するもので、地下からやって来たものと考えれば、冬眠とはかなり昏睡に近い行為であり、彼らは片桐の精神下からやって来たという考えもできます。かえるくんが、自分は「かえるさん」ではなく「かえるくん」だと何度も訂正したこともこれに因っているのではないかと思います。かえるくんとみみずくんは片桐の内部から生まれたものであり、片桐とは他人のような関係ではない。だから呼び捨てでも「さん付け」でもなく、親しみを込めた「くん付け」である。そして、だからこそかえるくんは片桐のことを細かく知り尽くしています。最期にかえるくんが言った台詞「片桐さん、ぼくはだんだん混濁の中に戻っていきます。しかしながらもし……ぼくが……」の「戻っていく」という表現からも、かえるくんが片桐の精神下からやって来たような印象を受けます。
つまり、片桐の奥底からやって来たかえるくんとみみずくんは、昏睡している片桐自身の精神下で、激しい戦いを繰り広げ、そして無意識に片桐もそれに参加していた、と考えます。
(3)『地震の正体と、かえるくん、みみずくんが象徴しているもの』
かえるくんとみみずくんが何を象徴しているのかは、みみずくんが何者なのかを最初に分析し、考えました。前述のようにかえるくんとみみずくんは片桐の精神下からやって来た者だと仮定します。
かえるくんはみみずくんのことをこう語っています。「みみずくんがその暗い頭の中でなにを考えているかは、それは誰にも分からないのです。みみずくんの姿を見たものさえ、ほとんどいません。(中略)実際のところ、彼はなにも考えていないのだと僕は推測します。彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じ取り、ひとつひとつを吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみという形に置き換えられます。どうしてそうなるのかはわかりません。」「ぼくが一人であいつに勝てる確率は、アンナ・カレーリナが驀進してくる機関車に勝てる確率よりも、少しはマシな程度でしょう。」
みみずくんが感じ取る響きやふるえとは、片桐(普通の人間)が日常で感じているストレスややりきれなさ、または、そこまでいかなくても、人間が社会で生きていくだけで少しずつ、しかし確実に溜まっていく不の感情のようなものではないかと思います。それは自分自身で感じ取ることができないほどに小さく何気ないものであり、だから人々はみみずくんの姿を見たことがないし、深い暗闇の中にいると解釈出来ます。そしてその小さなものがみみずくんの中へだんだん溜まっていき、やがて時が来ると、それは根拠の無い憎しみや衝動、絶望へ変わります。この人の中に蓄積されたよく分からないものが憎しみや衝動、絶望へ変わる大きなきっかけの一つとして、地震が上げられているのだと思います。「彼は先月の神戸地震によって、心地の良い眠りを唐突に破られたのです。そのことで彼は深い怒りに示唆された一つの啓示を得ました。そして、よし、それなら自分もこの東京の街で大きな地震を引き起こしてやろうと決心したのです。」とかえるくんは言っています。
つまり、みみずくんが起こす地震とは、阪神大震災の影響を受けて、普通の人間が今まで何気ない日常生活の中で無意識に貯めこんできた何かが、形あるもの(憎しみなど)に姿を変え、実際に行動として表へ出てきてしまう事なのではないかと思います。当然、そこに理性や考えはなく、また無いからこそそうなってしまいます。だからみみずくんは「なにも考えていない」のであり、それを阻止しようとするかえるくんは、知的であり、まるで人の理性を象徴しているかのようでもあります。かえるくんの「片桐さん」「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」という台詞は、日常生活の中の、何気ない言葉にならない摩擦を受けている当事者にしか、この仕事を実行することができない、という意味なのではないかと思います。
(4)『かえるくんは非かえるくんの世界を表象するもの、という意味』
かえるくんはみみずくんとの闘いを終え、眠りに落ちてしまう前に片桐へこう言います。「ぼくは純粋なかえるですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」「目に見えるものが本当のものとは限りません。ぼくの敵はぼく自身のぼくでもあります。ぼく自身の中に非ぼくがいます」これはどういうことなのかを考えました。かえるくんは人間の理性を象徴するものだとします。そうなった場合、確かにかえるくん自身は、理性です。ではなぜ、普段理性で回っていると思われる人間の社会で生活していると、その人間の中に「響きやふるえ」が自然と蓄積していってしまうのかというと、人間の理性の中に理性ではない何かが認識できないほどに何気なく溶け込んでいるからだと思われます。つまり、その理性の中の理性ではないなにかが、かえるくんの言うところの「ぼく自身の中の非ぼく」であり、また、それがあるからこそ、かえるくんはこうしてみみずくんを退治しなくてはなりません。理性がなければ憎しみや絶望も生まれないので、理性でそれらを抑えこむ必要もなくなります。だからかえるくんは、かえるくん以外の非かえるくんを表象するものであるのだと思います。
【かえるくんとみみずくんの闘いとは、片桐の中で無意識に起こっている理性と衝動のせめぎあいである】
かえるくん、みみずくん共に、片桐の深層心理からやって来たものであり、その正体は、みみずくん=「憎しみ、衝動」で、かえるくん=「それを抑えようとする無意識の抵抗力」だと思います。だから、かえるくんとみみずくんの闘いも当然、片桐の精神下、想像の中で行われます。
そしてこれと、震災、地下鉄サリン事件との関連性は、地震をきっかけにサリン事件が起こったという点にあります。つまり、震災は人間の中のみみずくんを目覚めさせてしまう大きな要素であり、それは特別な人間ではなく、全ての人間に共通しています。もちろん、地下鉄サリン事件を起こした人間たちはいわゆる「特別な人間」ですが、みみずくんの起こす地震は「事件を起こす」だけではなく、震災鬱や震災後の犯罪の横行にも例えられていると言えます。
人間の中では時々、理性であるかえるくんのような存在と、何かが積み重なって爆発してしまうようなみみずくんのような存在が闘います。そしてその闘いのほとんどは、無意識のうちに終わりますが、衝動が大きすぎる場合は、意識的にそれを抑え無くてはならないことがあります。意識とは、本人、片桐
のことであり、かえるくんが片桐の力を必要としたのはそのためだと思われます。
つまり、片桐は、自分自身を救うためにかえるくんに協力していたのであり、自分自身のみみずくんを退治するために、自分の深層心理に降りていったのではないかと思われます。この物語は、初めから終わりまで、自分自身との闘いを描いたものだと解釈しました。
【参考文献】
村上春樹『第3巻 短篇集2』(講談社、2003年3月20日)
村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
村上春樹インタビュー集1997―2011』(文芸春樹、2010年9月)
村上春樹『雑文集』(2011年1月、新潮社)
加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011』(講談社、2011年8月25日)
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