2014年8月15日金曜日

志賀直哉 『范の犯罪』 考察


【考察1】范はなぜ無罪なのか
    作品は、范が妻を殺したのは果たして故意だったのか、それとも過失だったのかが争点となりストーリーが展開していく。しかし范のセリフ、

「段々に自分ながら分からなくなってきました。」

私はもう過失だとは決して断言しません。その代わり故意の仕業だと申すことも決してありません。

などの部分を疑いなく読むと、犯罪は故意でもなく過失でもなく、意識と無意識、また潜在意識が複雑に絡まり合って起こってしまったものだということが分かる。裁判官は最終的に「無罪」という判決を書くが、なぜ裁判官が故意か過失かがはっきりしない犯罪を無罪にしたのかという理由は語られない。なので、なぜ志賀直哉がこの作品の中で范の犯罪を裁判官に無罪と書かせたのか、という理由について考えてみた。
    まず范の中には相反する二人の自分がいる。それは妻を憎み、恨むあまりに「殺してしまおうか」と思う自分と、それ以外のいろいろなことを考え積極的な行動を取れずにいる弱い自分である。そして「本統の生活」を強く望むことによって、意識の中では殺人願望を抑えてはいるが、無意識の中では、妻を殺して本当の生活を手に入れたい、という思いが常に渦巻いているというような状態になる。この二つの感情のせめぎあいが飽和点に達した時に、范は発作的に罪を犯してしまうということになるのだが、この発作というのは意識や無意識といった次元ではなく、また全く別次元のところに生まれた衝動なのではないか。このことは宮越勉の論によっても

この犯罪がこの様に意識と無意識の堺で――と云うよりも、まだどのような意識活動の容喙をも許さない意識外の世界で、瞬間的な、発作的な、衝動によって行われたということが重要である。(宮越勉『志賀直哉 暗夜行路の交響世界』翰林書房 20077月)

というように少し違った形で言及されている。范の最後のセリフ、

「私はこれまで妻に対してどんなに烈しい憎みを感じた場合にもこれ程快活な心持で妻の死を話し得る自分を想像したことがありません。」

からも分かるように范は妻を殺したことに関して後悔や哀情を持っていない。つまり、事件後の范には、心の右顧左眄は観られないということである。これから、范の衝動は、意識が勝つのか無意識意識が勝つのか、故意なのか過失なのか、そういった駆け引きや揺らぎを一切無視且つ蹂躙し、新しい概念の元に生まれた衝動なのではないかということが推測できる。正直にいるということが范のいう「本統の生活」と間接的に関係しているということだ。
    范は、自分が「本統の生活」を手に入れられないのは妻のせいだと認識しており、だからこそ妻を憎んでいた。范の思う「本統の生活」とは何かというのは、范のセリフにある、

「私は近頃の自分に本当の生活がないということを堪らなく苛々して居た時だったからです。(略)私は私が右顧左顧、終始きょときょとと欲することも思い切って欲し得ず、いやでいやでならないものをも思い切って撥ね退けて了へない、中ぶらりんな、うぢうぢとした此生活が総て妻との関係から出て来るものだという気がしてきたのです。」

という一節から分かる。ならばきっと、范の思う「本統の生活」というのは「欲することは構わず何でも欲し、嫌で嫌でたまらないものは思い切って撥ね退ける、地に足の着いた生き方」だったのだろう。一見するとエゴの塊のような生き方であるが、私は、志賀直哉が、人間はこのようにエゴイスティックなものだ、こういう生き方を目指さなければ、人間の中の、人間を人間たらしめているものがだんだんと消滅していってしまう、というような考えを持っていたのではないか。
    志賀直哉が范の望んだ「本統の生活」、つまりエゴイスティックな人間の生き方を肯定する立場を取っていたならば、范が無罪になった訳については、裁判官が、意識と無意識がせめぎ合い、極限まで追い詰められた故に湧いた衝動へ従い行われた行為は罪悪ではない、むしろ、人として極自然な行為である、と考え范を無罪にした、と理由づけすることが出来ると思われる。この場合の無罪とは、井上良雄の論に、

然しこの無罪は有罪に対した無罪ではない。裁判官が身内に湧き上がる興奮を感じながら、この世に荒々しく宣告したことは、自然な生命衝動によって行われる限りは最早許される、「罪」ではない、という事だ。
(『現代文学の発見 第一巻最初の衝撃』學藝書林 20029
責任編集者:大岡昇平 引用論文執筆者:井上良雄)

とあるように、いわゆる法的な「有罪」と対立した「無罪」ではない。范のセリフに、

殺した結果がどうなろうとそれは今の問題ではない。牢屋へ入れられるかもしれない。しかも牢屋の生活は今の生活よりどの位いいか知れはしない。其時は其時だ。其時に起こることは其時にどうにでも破って了えばいいのだ。破っても、破っても、破り切れないかも知れない。然し死ぬまで破ろうとすればそれが俺の本統の生活になるというものだ。

とある。今回の作品での無罪判決は「善か悪か」や「有罪や無罪か」ではなく、范のこのセリフにあるような人間のエゴ的な欲求、本当の生活を望む故に生まれた衝動にそって行動することは許される、それでいい、とそのまま肯定するものだと捉えることも出来る。
さらに、この裁判官が無罪判決を書く際に、

何か知れぬ興奮の自身に湧き上がるのを感じた。

と書かれているのは、范の激しく確かな生命衝動へ、裁判官の中に潜んでいる人間としてのエゴ的な本能が呼応したからだ。そしてこの裁判官の中に湧く范への呼応も、人間は誰しもこのような衝動を引き起こす性質のものを秘めている、という范の行動を肯定する理由の一つとなっている。

【考察2】「范の犯罪」が内包している志賀直哉らしさについて
    私は志賀直哉らしさ、志賀直哉の作家性は「暗夜行路」にある主人公時任謙作のセリフ、次の引用にすべて表れていると思う。

     「然し俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったやうに寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになって呉れさへすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考へ方だよ。同時に功利的な考へ方かも知れない。さふいふ性質だから仕方がない。お前といふものを認めてゐない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。」

つまり、現実に起きた難解な問題に直面し、自分自身の理性と感情が分裂してしまった時、人間はそれにどう決着を着ければよいのか、ということだ。
寛大な考えと寛大でない感情がぴったり一つになってくれさえすれば何も問題は無いのだが、なかなか一つになってはくれない。しかし、それはそういう性質のものだから仕方のないことだ。大事なのは、自分自身がどうそれへ対処するのかということで、エゴイスティックな考えだが、これは最初から最後まで自分の問題である。感情に任せるのか、理性で現実を受け入れるのか、全ては自分の問題である、ということである。
そして、この時任謙作のセリフは、そのまま今回の「范の犯罪」のテーマにも当てはまる。范が抱えていた問題は、決して自分と妻の問題ではなく、妻という現実の問題に対して、自分がどのような行動を取るのか、どのように決着を着けるのか、という自分自身の葛藤なのだ。范はその結果、感情でも理性でもなく、ある発作的な衝動を現実にぶつけることでその問題に決着をつけた。そしてその結果、裁判官から無罪の判決を受けたのだ。エゴイスティックな本能や衝動を認めるという結果が、この「范の犯罪」という作品の中で出た、現実に起きた難解な問題に直面し、自分自身の理性と感情が分裂してしまった時、人間はそれにどう決着を着ければよいのか、という「志賀直哉らしさ」、自己の救済の物語への一つの答えだと言える。


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