2014年9月6日土曜日
2014/09/06
アルブミン製剤の点滴をした。
しかし自分はアルブミン製剤を打つとアレルギーが出るみたいだ。蕁麻疹、呼吸障害、気持ち悪さが出る。どうしよう。アルブミン製剤を打つと調子が良くなるので、出来れば打ちたいけどどうしようもない。
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今日移植の連絡が来た。
本当にありがたい。
うまくいってほしい。
これからがんばろう。
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森山直太朗の「太陽」という曲の出だし
ちょっと一曲歌わせて
今聞いておきたいことがある
いつか僕もあなたも白髪になって
忘れてしまうだろうけど
とても哀しい歌詞だと思った。
これから歌を歌うのに、いつか必ず来る忘れてしまう時のことを先に言うとは。
自分は喜怒哀楽の勧請のなかで1番「哀」が好きだ。その次が「怒」。その次が「喜」。一番嫌いなのが「楽」。
とりあえず、白髪になって全部忘れてしまうまでは生きたい。
2014年9月3日水曜日
2014/09/03
・深夜、林修先生がいろいろなことについて解説する番組で落語家の桂枝雀のことをやっていた。とても感動した。この人は自分だとさえ思った。
・心臓の鼓動が時々早く、大きくなる。動悸息切れってやつなのか。鼓動の音がうるさくて寝ようとしている時とかはうっとおしい。
・友達と温野菜に行く約束をしてしまった。ちゃんと行けるだろうか。行けたとしても、塩分や食べ過ぎに注意しなければ。
・完全に昼夜逆転している。最近では朝ごはんを食べるとすぐに寝る。
・レトルトカレーが異常にうまく感じた。
2014年9月1日月曜日
2014/09/01
症状のメモ
総ビリルビン 17.4
アンモニア 81
血小板 33
ALT 39
ALP 435
・濃い黄疸
・強いそう痒感
・大きな疲れ、気分の落ち込み
・脾臓肥大
・軽い呼吸障害、咳、腹部圧迫感
・下肢、腹部むくみ
・腰の大きな痛み
・背骨、腰骨の歪み
・物忘れ、思考能力の低下
総ビリルビン 17.4
アンモニア 81
血小板 33
ALT 39
ALP 435
・濃い黄疸
・強いそう痒感
・大きな疲れ、気分の落ち込み
・脾臓肥大
・軽い呼吸障害、咳、腹部圧迫感
・下肢、腹部むくみ
・腰の大きな痛み
・背骨、腰骨の歪み
・物忘れ、思考能力の低下
2014年8月31日日曜日
2014/08/31
原発性硬化性胆管炎で脳死肝移植の順番を待っている。
もう5年以上待っていると思う。
しかし順番が回ってくる気配は薄い。
点数は8点らしい。
骨が脆くなりボロボロで立つことすら出来ないことがあるので、なるべくはやく移植して元気になりたい。
2014年8月27日水曜日
2014/08/27
退院してから、体重を気にしている。
体重が減ると、なんだか調子がいいような気がする。
やはり体が軽いと動きやすいのか。
塩分、脂質、量に気を使ってはいるが、あまりうまくいかないところもある。
家族に協力もしてもらっている。
谷川俊太郎の詩の一節、
一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る
とても良いフレーズだなと思った。
2014年8月15日金曜日
村上春樹 『かえるくん、東京を救う』 解説
【それぞれが象徴しているもの・こと】
(1)『かえるくんとみみずくんの共通点と相違点』
かえるくんとみみずくんはある意味で対照的ですが、ある意味では共通しているところもあります。例えば、かえるくんは東京を救う者、みみずくんは東京を壊す者、というのは代表的な対象のポイントであると言えます。さらに、かえるくんはいろいろな本の話をしたり、冗談を言ったり、知的な一面を見せますが、みみずくんのことをかえるくんは「何年も何十年もぶっ続けで寝ています。(中略)実際の話、彼はなにも考えていないのではないかと僕は推測します。」と説明しています。これは対照的です。しかし、一方でかえるくんは冬眠する者、また、みみずくんも冬眠する者です。さらに、かえるくんは自分のことを「かえるさん」と呼ぶ片桐を事あるごとに「かえるくん」と人差し指を立てて訂正しますが、かえるくんが自分を「くん付け」で呼べと言うのと同時に、彼はみみずくんを「くん付け」で呼んでいます。これは共通点であると言えます。つまり「かえるくんとみみずくんは、同種、同じ性質の者ではあるが、まったく逆の立場に位置している」と考えられます。
(2)『全ては地下、または想像の中で行われたということ』
この物語を分析するにあたり、「地下」というキーワードに注目します。村上春樹作品で地下といえば、なにか不のイメージの出来事・存在が溜まる場所というイメージがあります。(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドのやみくろ/ノルウェイの森の井戸)また、村上春樹が執筆した地下鉄サリン事件のノンフィクション小説「アンダーグランド」も、地下鉄、つまり地下の出来事です。そしてかえるくん、みみずくん共に冬眠するものであり、地下に存在するものという考え方もできます。
では今回の「地下」がなにを指しているのかと言えば、人間の無意識下の精神だと思います。なぜなら、地震を食い止める為に地下へ降りたはずのかえるくんは、昏睡から覚め、病院のベッドで寝ていた片桐に向かって「片桐さんは夢の中でしっかりと僕を助けてくれました」「すべての激しい闘いは想像力の中で行われました」と言ったからです。まず、昏睡している状態で人間が関与できる場所は、無意識下での自分の精神・または想像しかありません。すべての闘いは片桐の精神・想像の中で行われたという可能性もあるのではないかと思います。さらに、かえるくんとみみずくんが冬眠するもので、地下からやって来たものと考えれば、冬眠とはかなり昏睡に近い行為であり、彼らは片桐の精神下からやって来たという考えもできます。かえるくんが、自分は「かえるさん」ではなく「かえるくん」だと何度も訂正したこともこれに因っているのではないかと思います。かえるくんとみみずくんは片桐の内部から生まれたものであり、片桐とは他人のような関係ではない。だから呼び捨てでも「さん付け」でもなく、親しみを込めた「くん付け」である。そして、だからこそかえるくんは片桐のことを細かく知り尽くしています。最期にかえるくんが言った台詞「片桐さん、ぼくはだんだん混濁の中に戻っていきます。しかしながらもし……ぼくが……」の「戻っていく」という表現からも、かえるくんが片桐の精神下からやって来たような印象を受けます。
つまり、片桐の奥底からやって来たかえるくんとみみずくんは、昏睡している片桐自身の精神下で、激しい戦いを繰り広げ、そして無意識に片桐もそれに参加していた、と考えます。
(3)『地震の正体と、かえるくん、みみずくんが象徴しているもの』
かえるくんとみみずくんが何を象徴しているのかは、みみずくんが何者なのかを最初に分析し、考えました。前述のようにかえるくんとみみずくんは片桐の精神下からやって来た者だと仮定します。
かえるくんはみみずくんのことをこう語っています。「みみずくんがその暗い頭の中でなにを考えているかは、それは誰にも分からないのです。みみずくんの姿を見たものさえ、ほとんどいません。(中略)実際のところ、彼はなにも考えていないのだと僕は推測します。彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じ取り、ひとつひとつを吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみという形に置き換えられます。どうしてそうなるのかはわかりません。」「ぼくが一人であいつに勝てる確率は、アンナ・カレーリナが驀進してくる機関車に勝てる確率よりも、少しはマシな程度でしょう。」
みみずくんが感じ取る響きやふるえとは、片桐(普通の人間)が日常で感じているストレスややりきれなさ、または、そこまでいかなくても、人間が社会で生きていくだけで少しずつ、しかし確実に溜まっていく不の感情のようなものではないかと思います。それは自分自身で感じ取ることができないほどに小さく何気ないものであり、だから人々はみみずくんの姿を見たことがないし、深い暗闇の中にいると解釈出来ます。そしてその小さなものがみみずくんの中へだんだん溜まっていき、やがて時が来ると、それは根拠の無い憎しみや衝動、絶望へ変わります。この人の中に蓄積されたよく分からないものが憎しみや衝動、絶望へ変わる大きなきっかけの一つとして、地震が上げられているのだと思います。「彼は先月の神戸地震によって、心地の良い眠りを唐突に破られたのです。そのことで彼は深い怒りに示唆された一つの啓示を得ました。そして、よし、それなら自分もこの東京の街で大きな地震を引き起こしてやろうと決心したのです。」とかえるくんは言っています。
つまり、みみずくんが起こす地震とは、阪神大震災の影響を受けて、普通の人間が今まで何気ない日常生活の中で無意識に貯めこんできた何かが、形あるもの(憎しみなど)に姿を変え、実際に行動として表へ出てきてしまう事なのではないかと思います。当然、そこに理性や考えはなく、また無いからこそそうなってしまいます。だからみみずくんは「なにも考えていない」のであり、それを阻止しようとするかえるくんは、知的であり、まるで人の理性を象徴しているかのようでもあります。かえるくんの「片桐さん」「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」という台詞は、日常生活の中の、何気ない言葉にならない摩擦を受けている当事者にしか、この仕事を実行することができない、という意味なのではないかと思います。
(4)『かえるくんは非かえるくんの世界を表象するもの、という意味』
かえるくんはみみずくんとの闘いを終え、眠りに落ちてしまう前に片桐へこう言います。「ぼくは純粋なかえるですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」「目に見えるものが本当のものとは限りません。ぼくの敵はぼく自身のぼくでもあります。ぼく自身の中に非ぼくがいます」これはどういうことなのかを考えました。かえるくんは人間の理性を象徴するものだとします。そうなった場合、確かにかえるくん自身は、理性です。ではなぜ、普段理性で回っていると思われる人間の社会で生活していると、その人間の中に「響きやふるえ」が自然と蓄積していってしまうのかというと、人間の理性の中に理性ではない何かが認識できないほどに何気なく溶け込んでいるからだと思われます。つまり、その理性の中の理性ではないなにかが、かえるくんの言うところの「ぼく自身の中の非ぼく」であり、また、それがあるからこそ、かえるくんはこうしてみみずくんを退治しなくてはなりません。理性がなければ憎しみや絶望も生まれないので、理性でそれらを抑えこむ必要もなくなります。だからかえるくんは、かえるくん以外の非かえるくんを表象するものであるのだと思います。
【かえるくんとみみずくんの闘いとは、片桐の中で無意識に起こっている理性と衝動のせめぎあいである】
かえるくん、みみずくん共に、片桐の深層心理からやって来たものであり、その正体は、みみずくん=「憎しみ、衝動」で、かえるくん=「それを抑えようとする無意識の抵抗力」だと思います。だから、かえるくんとみみずくんの闘いも当然、片桐の精神下、想像の中で行われます。
そしてこれと、震災、地下鉄サリン事件との関連性は、地震をきっかけにサリン事件が起こったという点にあります。つまり、震災は人間の中のみみずくんを目覚めさせてしまう大きな要素であり、それは特別な人間ではなく、全ての人間に共通しています。もちろん、地下鉄サリン事件を起こした人間たちはいわゆる「特別な人間」ですが、みみずくんの起こす地震は「事件を起こす」だけではなく、震災鬱や震災後の犯罪の横行にも例えられていると言えます。
人間の中では時々、理性であるかえるくんのような存在と、何かが積み重なって爆発してしまうようなみみずくんのような存在が闘います。そしてその闘いのほとんどは、無意識のうちに終わりますが、衝動が大きすぎる場合は、意識的にそれを抑え無くてはならないことがあります。意識とは、本人、片桐
のことであり、かえるくんが片桐の力を必要としたのはそのためだと思われます。
つまり、片桐は、自分自身を救うためにかえるくんに協力していたのであり、自分自身のみみずくんを退治するために、自分の深層心理に降りていったのではないかと思われます。この物語は、初めから終わりまで、自分自身との闘いを描いたものだと解釈しました。
【参考文献】
村上春樹『第3巻 短篇集2』(講談社、2003年3月20日)
村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
村上春樹インタビュー集1997―2011』(文芸春樹、2010年9月)
村上春樹『雑文集』(2011年1月、新潮社)
加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011』(講談社、2011年8月25日)
志賀直哉 『范の犯罪』 考察
【考察1】范はなぜ無罪なのか
作品は、范が妻を殺したのは果たして故意だったのか、それとも過失だったのかが争点となりストーリーが展開していく。しかし范のセリフ、
「段々に自分ながら分からなくなってきました。」
「私はもう過失だとは決して断言しません。その代わり故意の仕業だと申すことも決してありません。」
などの部分を疑いなく読むと、犯罪は故意でもなく過失でもなく、意識と無意識、また潜在意識が複雑に絡まり合って起こってしまったものだということが分かる。裁判官は最終的に「無罪」という判決を書くが、なぜ裁判官が故意か過失かがはっきりしない犯罪を無罪にしたのかという理由は語られない。なので、なぜ志賀直哉がこの作品の中で范の犯罪を裁判官に無罪と書かせたのか、という理由について考えてみた。
まず范の中には相反する二人の自分がいる。それは妻を憎み、恨むあまりに「殺してしまおうか」と思う自分と、それ以外のいろいろなことを考え積極的な行動を取れずにいる弱い自分である。そして「本統の生活」を強く望むことによって、意識の中では殺人願望を抑えてはいるが、無意識の中では、妻を殺して本当の生活を手に入れたい、という思いが常に渦巻いているというような状態になる。この二つの感情のせめぎあいが飽和点に達した時に、范は発作的に罪を犯してしまうということになるのだが、この発作というのは意識や無意識といった次元ではなく、また全く別次元のところに生まれた衝動なのではないか。このことは宮越勉の論によっても
この犯罪がこの様に意識と無意識の堺で――と云うよりも、まだどのような意識活動の容喙をも許さない意識外の世界で、瞬間的な、発作的な、衝動によって行われたということが重要である。(宮越勉『志賀直哉 暗夜行路の交響世界』翰林書房 2007年7月)
というように少し違った形で言及されている。范の最後のセリフ、
「私はこれまで妻に対してどんなに烈しい憎みを感じた場合にもこれ程快活な心持で妻の死を話し得る自分を想像したことがありません。」
からも分かるように范は妻を殺したことに関して後悔や哀情を持っていない。つまり、事件後の范には、心の右顧左眄は観られないということである。これから、范の衝動は、意識が勝つのか無意識意識が勝つのか、故意なのか過失なのか、そういった駆け引きや揺らぎを一切無視且つ蹂躙し、新しい概念の元に生まれた衝動なのではないかということが推測できる。正直にいるということが范のいう「本統の生活」と間接的に関係しているということだ。
范は、自分が「本統の生活」を手に入れられないのは妻のせいだと認識しており、だからこそ妻を憎んでいた。范の思う「本統の生活」とは何かというのは、范のセリフにある、
「私は近頃の自分に本当の生活がないということを堪らなく苛々して居た時だったからです。(略)私は私が右顧左顧、終始きょときょとと欲することも思い切って欲し得ず、いやでいやでならないものをも思い切って撥ね退けて了へない、中ぶらりんな、うぢうぢとした此生活が総て妻との関係から出て来るものだという気がしてきたのです。」
という一節から分かる。ならばきっと、范の思う「本統の生活」というのは「欲することは構わず何でも欲し、嫌で嫌でたまらないものは思い切って撥ね退ける、地に足の着いた生き方」だったのだろう。一見するとエゴの塊のような生き方であるが、私は、志賀直哉が、人間はこのようにエゴイスティックなものだ、こういう生き方を目指さなければ、人間の中の、人間を人間たらしめているものがだんだんと消滅していってしまう、というような考えを持っていたのではないか。
志賀直哉が范の望んだ「本統の生活」、つまりエゴイスティックな人間の生き方を肯定する立場を取っていたならば、范が無罪になった訳については、裁判官が、意識と無意識がせめぎ合い、極限まで追い詰められた故に湧いた衝動へ従い行われた行為は罪悪ではない、むしろ、人として極自然な行為である、と考え范を無罪にした、と理由づけすることが出来ると思われる。この場合の無罪とは、井上良雄の論に、
然しこの無罪は有罪に対した無罪ではない。裁判官が身内に湧き上がる興奮を感じながら、この世に荒々しく宣告したことは、自然な生命衝動によって行われる限りは最早許される、「罪」ではない、という事だ。
(『現代文学の発見 第一巻最初の衝撃』學藝書林 2002年9月
責任編集者:大岡昇平 引用論文執筆者:井上良雄)
とあるように、いわゆる法的な「有罪」と対立した「無罪」ではない。范のセリフに、
殺した結果がどうなろうとそれは今の問題ではない。牢屋へ入れられるかもしれない。しかも牢屋の生活は今の生活よりどの位いいか知れはしない。其時は其時だ。其時に起こることは其時にどうにでも破って了えばいいのだ。破っても、破っても、破り切れないかも知れない。然し死ぬまで破ろうとすればそれが俺の本統の生活になるというものだ。
とある。今回の作品での無罪判決は「善か悪か」や「有罪や無罪か」ではなく、范のこのセリフにあるような人間のエゴ的な欲求、本当の生活を望む故に生まれた衝動にそって行動することは許される、それでいい、とそのまま肯定するものだと捉えることも出来る。
さらに、この裁判官が無罪判決を書く際に、
何か知れぬ興奮の自身に湧き上がるのを感じた。
と書かれているのは、范の激しく確かな生命衝動へ、裁判官の中に潜んでいる人間としてのエゴ的な本能が呼応したからだ。そしてこの裁判官の中に湧く范への呼応も、人間は誰しもこのような衝動を引き起こす性質のものを秘めている、という范の行動を肯定する理由の一つとなっている。
【考察2】「范の犯罪」が内包している志賀直哉らしさについて
私は志賀直哉らしさ、志賀直哉の作家性は「暗夜行路」にある主人公時任謙作のセリフ、次の引用にすべて表れていると思う。
「然し俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったやうに寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになって呉れさへすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考へ方だよ。同時に功利的な考へ方かも知れない。さふいふ性質だから仕方がない。お前といふものを認めてゐない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。」
つまり、現実に起きた難解な問題に直面し、自分自身の理性と感情が分裂してしまった時、人間はそれにどう決着を着ければよいのか、ということだ。
寛大な考えと寛大でない感情がぴったり一つになってくれさえすれば何も問題は無いのだが、なかなか一つになってはくれない。しかし、それはそういう性質のものだから仕方のないことだ。大事なのは、自分自身がどうそれへ対処するのかということで、エゴイスティックな考えだが、これは最初から最後まで自分の問題である。感情に任せるのか、理性で現実を受け入れるのか、全ては自分の問題である、ということである。
そして、この時任謙作のセリフは、そのまま今回の「范の犯罪」のテーマにも当てはまる。范が抱えていた問題は、決して自分と妻の問題ではなく、妻という現実の問題に対して、自分がどのような行動を取るのか、どのように決着を着けるのか、という自分自身の葛藤なのだ。范はその結果、感情でも理性でもなく、ある発作的な衝動を現実にぶつけることでその問題に決着をつけた。そしてその結果、裁判官から無罪の判決を受けたのだ。エゴイスティックな本能や衝動を認めるという結果が、この「范の犯罪」という作品の中で出た、現実に起きた難解な問題に直面し、自分自身の理性と感情が分裂してしまった時、人間はそれにどう決着を着ければよいのか、という「志賀直哉らしさ」、自己の救済の物語への一つの答えだと言える。
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